千年祀り唄
―宿儺編―


7 雨の映画館


廃れた映画館の片隅で男はじっとそのスクリーンを見入っていた。
昔ながらの映写機で映されたそのフィルムは、画面も音声も少し歪んでいた。他に観客もなく、雨音のような雑音と湿った闇が染みついた時代の長さを投影しているかのようだ。
男と女。その体は縺れ、女の肌は艶めかしく、這い回る男の手や唇に反応して妖しく輝いていた。

客席の男はポケットから取り出したウィスキーの瓶の蓋を開けると一口飲んだ。それから、手の甲で口を拭うとそれをズボンのポケットに戻し、再びスクリーンを凝視した。
「そろそろだ」
男はそう口の中で呟いた。彼らの営みが絶頂を迎えた頃、カメラが一度パーンして天井を映す。瞬間、そこに映っている者の正体を男はどうしても知りたかった。
「つまんないよ!」
突然、子どもの声が響き渡った。誰もいないと思っていた客席の端に、何と親子連れがいたのだ。

「ちっ! 参ったな」
男は頭を掻いた。ほんの一瞬気を逸らしたせいで、問題のシーンは過ぎてしまった。文句の一つも言ってやろうかと思った。この映画はR18の指定が付いていた筈だ。
そもそもここに幼児がいること自体が問題なのだ。
しかも画面では凄惨な暴力シーンが展開していた。そして、最後には皆が血だらけになって死んで行く。まるで救いのない話なのだ。
「ママ! どうしてみんなころされたの?」
子どもが訊いた。
「女の人が、敵の組のトップの男に寝取られたからよ。そこに組長が踏み込んで、みんな殺したの」
男はげんなりした。

「おいおい、どういうつもりだい? そんなガキを映画につれて来て、しかもえらい解説付けてくれてるじゃないか」
男は肝心なシーンを見逃してしまったので苛立っていた。
「和音に訊かれたから答えただけです」
女は言った。和音と呼ばれた子どもは彼女に抱かれた赤ん坊のようだ。まだ3つにもならないようなあどけなさで、男を見ている。
「こんな小さい子どもに見せるような映画じゃないだろうが……」
男は言った。
「和音が見たいと言ったんです」
女が反論する。

「だからって……」
男はどうしても納得が行かなかった。
「和音が見たいと言ったんです」
女がもう一度同じ言葉を口にした。
「何でこの映画が観たかったんだ? 坊主」
男は抱かれた子どもに訊いた。
「うつってたから……」
子どもが言った。
「何が?」
「むかし」
「昔?」
「そうだよ。おじさんもあいにきたのでしょう?」
そう言うと子どもはくすくすと笑った。何かが変だと男は思った。女は薄い花模様のワンピースを着ていたが、子どもは夏だというのに、長ズボンに赤いニットの帽子を被っている。

「何に会いに来たって?」
「クモのおんなに」
子どもの目は爛々と輝いていた。
「てんじょうにはりついてた」
男は思わず息を呑んで和音と女と何も映っていないスクリーンとを見た。
「やっぱり蜘蛛なのか? あそこに映っていた者は……」
「クモのおんな」
和音が言って、またけらけらと笑う。

「おまえには見えるのか? あのスクリーンの中の……」
「みえる。ほら、そこにもいるよ」
和音が指差したのは男の背中だった。
「冗談はよせ。あれはスクリーンの中だ」
「そうだね。でも、きっとおじさんのことがだいすきででてきたんだよ」
劇場の中は冷えていた。外には真夏の太陽が輝いていた。が、中は冷房が効き過ぎている。そして、つい先程まで上映されていたスクリーンの中では雪が降っていた。季節感も何もねえなと男は思った。が、すべてにおいて場違いなのは季節だけではない。今、目の前にいる親子連れ、それこそがまさに場違いな存在なのだ。

天井に灯りが灯り、ドアが解放された。そこから清掃員が二人入って来て、左右から箒を使い始めた。いくら客が少ないからといって、不愉快なやり方だと男は思う。
「これじゃあ、余韻も何もありゃしねえ」
男が呟く。
それから3人は追い出されるようにロビーに出た。そこにはもう誰もいない。売店も閉まっていた。時刻は何故か深夜になろうとしていた。が、男は疑問を感じなかった。こんな時間に子どもを連れて映画館に来るなんてどうかしてると男は思いながら、そこにあった自動販売機でセブンスターを一つ買った。

見ると親子はまだ外へ続くドアの前にいた。外は雨。しかし、親子は傘を持ち合わせていないようだった。それは男も同じだったのだが、
この季節にはよくあることだ。時折、空が光っている。雷ならば直にやむ。男は固いソファーに腰を下ろして煙草を吹かし始めた。
「困ったわね。この雨ではとても外に出られない……」
女が呟く。と同時に雷鳴が響いた。が、抱かれた子どもはのんびりとあくびして、女の肩に頭を乗せた。
ロビーには何枚もポスターが貼られていたが、いずれも昔の物ばかりだった。中にはその映画がかかっていた頃のまま剥がし忘れたのかと思う程、色褪せた物まであった。それはそれで味わいがあるし、今となっては逆に価値がありそうな雰囲気さえ感じる。

雨が激しくなり、雷鳴も酷くなった。これからピークを迎えるのかもしれない。しかし、ここには長くいられないだろう。間もなく支配人が来て追い出されるに違いなかった。タクシーを呼ぶという手もあったが、男には持ち合わせがなかった。どうやら女も同様の理由、あるいは別の何らかの理由でタクシーを呼ぶのに躊躇いがあるようだ。眠り掛けた子どもの背中をとんとんとやさしく叩きながら、じっとガラス窓の向こうを見つめている。他の理由とは何か。男はそれが気になった。旦那と上手く行っていないのか。暴力から逃れて来たのか。それとも、帰る家がない。いや、それはないか。男はあれこれ想像した。よく見れば、あれはかなりいい女だ。顔立ちは細面で目鼻立ちは整っている。特に憂いを秘めた目がいい。睫も長い。俯き加減に伏せた感じは女優の長尾啓子に似ていた。

その女優は彼が見出した。何本かアダルトに出して、人気が出たら、純愛物のヒロインとして抜擢してやる。そう言ってスカウトした。

――きっとわたしをスターにしてくださいね

つぶらな瞳でそう懇願する彼女を抱いた。しなやかで美しいその娘を……。彼女は抵抗しなかった。

――監督、約束ですよ。きっとわたしを……

だが、彼はそうしなかった。女優としての彼女の才能より、女としての魅力に惚れてしまったのだ。
(そして、俺達は婚約した……)

――約束ですよ。きっと女優に……

そして、彼女はいなくなった。本当に唐突に姿を消してしまったのだ。八方手を尽くして探したが、長尾の消息は掴めなかった。

――きっとおじさんのことがだいすきででてきたんだよ

そう。あの映画のヒロインはまさにその彼女だった。しかし、その顔や肉体を見るために来たのではなかった。撮影していた時、ふとカメラに映り込んだその瞬間を確かめたくて来たのだ。
「……啓子」
男はそう呟いてから、それを握り潰すように、脇に備えてある灰皿に煙草を強くこすって消した。あれから四半世紀が過ぎようとしていた。今更、未練を感じている自分がおかしくて笑いそうになる。男は立ち上がって女の方へ近づいた。

「やみそうにないな」
誰に言うでもなく言ってみる。が、女は反応しなかった。ただ、抱いた子どもを静かに揺らしている。その子どもの足は細く、長いズボンの先端からスニーカーがぶら下がっていた。それは一見、肉も神経も通っていないのではないかと思った程だ。もっと良く見ようと視線を向けると、女は避けるように背中を向けて壁の方へ歩いて行った。その拍子に子どもの頭が傾いて、被っていた帽子が床に落ちた。男は反射的にそれを拾うと言った。
「帽子」
「どうも、すみません」
彼女が振り向く。瞬間。子どもの頭にもう一つの顔が覗いた。
「……!」

それは彫刻のような凹凸のはっきりとした鬼の顔だ。が、その目は固く閉じられている。薄い黒髪の下にもう一つの顔が眠っているのだ。恐ろしい。そして、何と美しい魔物か。男はじっとその面に見入った。
「ありがとうございます」
男の手から帽子を取ると、女はそっと息子の頭に被せた。

「撮らせてくれ!」
男は言った。
「……?」
「おまえと、その赤子を……」
男は興奮していた。
「何のことですの?」
女が言った。
「俺は亀山という。映画監督をしている者だ。あんた達を見て閃いたんだ。これは売れる。いい映画になる。いや、きっとそうする。だから、撮らせてくれ!」

「……和音を見世物にするつもりですか?」
きつい目をして女が睨む。
「そうじゃない。きっと和音君も人気者になる。俺が保証しよう。どうだ? そうすりゃ、金も入るし、子どもをいい学校にだってやれる。いいマンションに住んで、生活だって良くなる。いいことずくめだ」
「必要ありません」
彼女はきっぱり断った。
「何故だ? 俺が信用出来ないのか?」
女が頷く。

「ああ、そうだろうとも。今は落ちぶれて、こんな身なりをしているからな。だが、本当だ。ほんの少し前までは俺だってちっとは名前を知られた名監督って言われてたんだ。さっき、おまえ達が見てたこの映画だって俺が撮ったんだ。ほら、ここに監督の名前が書いてあるだろう?」
男はただいま上映中と張り紙のあるボードを指差して言った。
「わたしはアダルトに出演する気はありません」
「いや、もっともだ。あなたのような貴婦人には、もっと相応しい作品に出てもらいますよ」
男は少し頭を掻きながら言い訳した。
「いいえ。もうあなたのことは信用出来ません」
「もう……?」
怪訝な顔で男が見つめる。

「あなたは前にもそうおっしゃいました。次は相応しい作品に出してやると……」
男の背筋に冷たい衝撃が走った。
「まさか……」
一際大きな雷鳴がガラスの扉の向こうで炸裂した。女はゆっくりと後ろへ下がった。そして、開いた自動ドアの向こうへ歩き出す。
「待て! 待ってくれ! 君は……」
女を捕まえようと手を伸ばす。と、いきなりその手首を和音が握った。彼はぱちりと目を開いてじっと男を見つめた。

「おじちゃん、わるいひとなの?」
「違う。俺は……」
「ママがいやがってる」
その子どもに見つめられると身体が動かなくなった。
「俺はただ、心配しているんだ。まだこんなに雨が降っている。もう少し雨宿りしてた方がいいんじゃないかと思ってね」
しかし、そこに劇場の支配人が出て来て、無情にも入り口のシャッターを下ろしてしまった。男は軽く舌打ちして、また親子に話し掛けた。

「その先に俺の行きつけの店がある。そこで休んで行けばいい。俺も今はそう持ち合わせがある訳じゃないが、そこのマスターは俺の知り合いだ。追い出されはしないさ」
「お金ならあります」
女が言った。
「でも、あなたとお話をするつもりはありません」
毅然として言う。
「わかった。話さなくてもいい。だが、雨に濡れたら、和音君が風邪をひくかもしれない」
女が頷く。
「よし。では、次に小やみになった時、行こう。そこの交差点を左に行った3軒目だ」
そうして、彼らは走ってその店に向かった。


それは地下にある小さなスナックだった。客がほとんどいなかったので、彼らは隅のボックス席に座った。和音にはホットミルクを飲ませたが、女は何も口にしなかった。男はコーヒーを二つ頼んで、一つを女の前に置いた。が、彼女は無視した。
「怒ってるのか?」
「……」
「俺も悪かったと思ってる。だが、本当におまえのことが好きだったんだ。その気持ちだけは汲んで欲しい」
「……」
「あれから随分君を探したんだ。が、まるで見つからなかった。一体どこで何をしていたんだい? そして、今はどこに……」
男はあれこれと質問した。

「お話はしないと申し上げました」
女が言う。
「啓子」
「人違いです。わたしはそのような名前ではありません」
「何を言ってるんだ。さっきは……」
男は執着した。
「おじちゃん、わるいやつ?」
子どもが言った。
「いや。映画監督さ。なあ、和音君、映画に出たくないか? さっきの映画館みたいに大きなスクリーンに君やお母さんが出るんだ。それをみんなが観て、君はスターになる」
「いやだよ。そしたら、ぼくもママもころされちゃうよ!」
和音が泣きそうな声で言う。

「はは。さっきのとは違うよ。もっとずっときれいな映画さ。純愛物。いや、ファミリー物か。誰もが画面に釘付けになり、涙を流すような愛と感動のドラマだ」
和音は母親を見上げた。が、彼女は首を横に振る。
「和音、さあ、早くミルクを飲んでおしまいなさい。そろそろここを出ますよ」
「うん」
子どもは両手でカップを持ち上げると、それを飲んだ。
「出るったって、外は雨が……」
「やみました」
女が言った。その時、和音がごちそうさまと言い、女は明細書を持ってレジに向かった。

「待てよ。それはいいって……。ここに誘ったのは俺だ。おごらせてもらうよ」
女の手から明細を取り上げて言う。
「結構です。あなたは持ち合わせがないのでしょう?」
「馬鹿にすんな。俺だってそれくらいの小銭はあるさ。それに、俺はもうすぐ金持ちになる。次の映画で一発当ててな」
穴蔵のような階段を上ると、女の言った通り、雨はすっかり上がっていた。それでもまだどこかで遠雷が鳴り、フラッシュのような稲光が周囲に残像を刻む。

親子はもと来た道を戻り、交差点を右に曲がった。男は急いで後を追った。そして、ふと足を止め、そこに並ぶ建物を見た。
「何……!」
交差点の向こうにあの劇場が見える筈だ。それがすとんと消えているのだ。そこには雑居ビルが建ち、幾つかの店の案内があるだけだった。
「映画館が……。おい、あそこにあった筈だよな? 俺達が観た名画座の……」
そう言って横を向くと、さっきまでいた筈の親子の姿もない。
「馬鹿な……!」
男は急いで周囲を探したが、ついに親子は見つからなかった。そこで再び店に戻って確認しようと階段を降りたが、その店は既に3ヶ月前に閉店しているという。
「……真夏の夜の夢ってか?」
男は呆然として空を見た。暗く星のない夜だった。

――きっとあなたのことがだいすきででてきたんだね

背中に何かが貼り付いている。
「そうだ。俺はずっと背中に何かをしょっている」
それはまるで質量を感じさせない、糸のような重石……。知らぬうちに雁字搦めにされ、
女優という蜘蛛の女達に餌として喰われて行く。
「俺は肥やしか」
それが、これまでやりたい放題に振る舞って来た自分への報復なのかと男は思う。ならば、それを受け入れなければならないのか。否定するように靴先を路上に擦り付けた。その先に黒い水が溜まり、水面に街灯が反射している。
「あの女は啓子ではなかったのか? 俺は夢を見ていたのか? いいや、違う! 奴らは確かに存在していた。俺の目は節穴じゃねえ!」
男は叫んだ。こんな夜中でも車は引っ切りなしに通っていたが、男に気を留める者などいなかった。酔っ払いの戯言に付き合うような暇人など、この街にはいなかったからだ。

――クモのおんな

「そうだ。俺にはずっとあの女の影が付きまとっている。そのせいで啓子とも分かれることになったんだ。恐らくあの女のせいで……」
足下の黒い水。そこから覗く赤い複眼。しかし、それは一瞬で空へ飛び、高いビルのガラスへと移る。それは常に男の周囲にいて、見張っているのだ。

少年の日。田舎の古い家の土蔵で見つけた蜘蛛の巣に、捕らわれてからずっと……。
以来、彼の転機には必ず何かしらの予兆として蜘蛛が現れる。良いにつけ悪いにつけどちらにもだ。どうせなら、良い時にだけとか、悪い時にだけならば対策を講じ、役に立たせることも出来たろう。だが、そのどちらにも現れるのであればどうにもならない。だが、彼はそれが気になっていた。啓子がいなくなる寸前、またあの蜘蛛が現れた。それはスクリーンに映り込んでいた。それに気が付いたのはつい最近だった。フィルムに残るのは貴重だ。しかし、そのフィルムはほとんど残っていなかった。が、名画座で深夜、この作品が上映されると聞いてここに来たのだ。
残念ながら確認することは出来なかった。が、和音という顔を二つ持つ子どもに出会い、それを抱く女が啓子かもしれなかった。何という偶然だろう。それとも必然か。久しく仕事をしていなかったこの男に芸術家としての情熱が戻って来た。今は何かを撮りたくてたまらない気持ちになっている。と同時に、あの親子のことが気になっていた。

「あの女が啓子でないとしたら、一体だれだと言うんだ」
独り言のように呟く。
「美沙だよ」
唐突に背中から声がした。振り向くと、そこには中学生くらいの少年が立っていた。
「君は……」
しかし、それが誰なのか男にはわかっていた。それは和音だ。あの子どもと同じニットの帽子を被っているのが何よりの証拠だ。
「それがママの名前」
和音は言った。

「美沙か。いい名だ。きっとスターになれる」
「おじさん、前にもそう言ったよ。もう20年も昔に……」
「20年? それじゃあ、君はまだ生まれていなかったんじゃないのか?」
が、少年はくすりと笑って言った。
「生まれてたさ。おじさんの背中に糸を結んだのは僕なんだもの」
「何だって? それじゃあ、おまえが蜘蛛の女なのか?」
「違う。僕はただ戯れの音を結んだだけ……」
「戯れだと? 人を弄んだのか?」
「仲間かと思ったんだよ。おじさんには見えているらしかったから……。見えないものを見る目を持ってる人間がいるなんて知らなかったから……。でも、いいよ。糸は解いてあげる」

「糸を解く? おい、ちょっと待て! そんなことをしたら、これまで見えていたものが見えなくなってしまうということではないのか?」
男は焦った。失くしたくなかったからだ。彼がこれまで見て来た二重映しの残像、そのフィルムのすべてを……。
「大丈夫だよ。だんだん薄れては行くだろうけど、人生の半分以上その眼鏡で見て来たんだもの。感性は変わらないと思うよ」
「しかし……」
男は懸念していた。もう二度とあの蜘蛛の女を見る機会を失ってしまうかもしれない。そして、啓子は……。彼女こそがあの女の正体ではないのか。そして、和音の母、美沙とは何者なのか。

「あなたは成功するよ。真面目に映画を撮ったらね」
和音は男の目をじっと見つめて言った。
「だが、啓子は? いや、美沙さんでもいい。どうだ? 俺が君の父親になるってのは……」
「ママはその気になれないって……。それに……」
「それに?」
和音の顔が少し歪んだ。ニットの帽子が少しずつずれて長い黒髪が宙に舞う。黒い夜のスクリーンに投影された和音のもう一つの顔。篝火が燃え、照らされた鬼の面。開かれた瞳が男を見下ろす。
「目が…開いて……」
鬼火が舞った。

「あなたを今殺さないのは、先に契約があるからだよ」
「契約?」
「屍は蜘蛛の餌にするって、虚ろな夢を生きる人間の人生が終わる時、その身を捧げるという契約を、あの日、田舎の家の土蔵で誓い、蜘蛛はおまえを見逃した」
少年はそれだけ言うとけらけらと笑った。
「俺が、そんな契約を……」
「蜘蛛は獲物をばらばらにして食べるんだって……。でも、もう死んでるのだから、痛みは感じない筈だ」
「じょ、冗談じゃない! 俺はまだ生きてるぞ!」
男は焦って言った。

「そう。完全に心臓が止まる前でなくちゃ……。生き餌にならないでしょう?」
「生き餌だって? おまえ、さっきは屍になってからと言ったじゃないか!」
「蜘蛛が食べるのは生き餌さ。それから骨を砕いて蒔き餌にする。それを啄むものもいる。うれしいだろう? 死んでも役に立つのだから……」
見えない腕が伸びて男を捕らえた。眼前を炎球が飛び、鬼が笑った。和音が吹く笛の音が夜の街に遠くまで響いた。男は腰を取られ、アスファルトの上でもがく。ポケットからウィスキーの瓶が転がり、蓋が外れた。中に残っていた液体が零れ、それが炎に引火して爆発が起こり、近くにあった街路樹が燃えた。

「和音」
歩道から女が呼んだ。
「ママ!」
彼はそちらに駆けて行った。その姿はみるみる小さくなり、初めに会った幼児の姿になって、母の腕に抱かれた。
「可哀想に……。驚いたのね」
赤々と燃える炎に照らされて、女はしっかりと子どもを抱いた。


そして、一年後。亀山監督は奇跡の復活を遂げた。
蜘蛛に魅入られた少年というコンセプトで、自分自身の半生を描いた物だ。試写会での評判も上々で、前評判もかなりの物だった。封切り初日での挨拶で、彼は一年前の不思議な体験を語った。
「……という実体験からこの映画は制作されたのです。じっくり楽しんでもらえたら本望です」
わっと歓声と拍手が巻き起こった。男は満足だった。客席は満席で立ち見まで出ている。今度あの親子に出会ったら言ってやろうと思う。

「本当に一本当ててやったぜ」
そして、今度はケーキセットでもおごってやろう。この成功はあの親子との出会いから生まれたのだから……。
男が舞台挨拶を終え、引き上げようとした時、後ろのドアの近くに立つ親子連れに目を留めた。
(和音……)
男は急いで階段を駆け上がり、正面の扉を目指した。が、近くまで行くとそれはあの親子ではなかった。抱かれた子どもは和音ではなかった。
(俺が見間違えたというのか)
男は信じられずに何度も瞬きした。

――ふふふ。ここだよ

照明が落ちて映写機が動き始めた瞬間、ふとスクリーンの方を見ると、天井いっぱいに貼り付いた蜘蛛が見えた。そして、スクリーンでは映画のロゴが消え、本編が始まっていた。
「おじちゃん、わるいひとだね」
上着の裾を引っ張られ、見れば、そこには女に抱かれた子どもが男を見て笑った。ニットの帽子は緑と白に変わっている。
「何故俺が悪い奴なんだ?」
子どもに訊いた。
「ぼくらのことを映画にしたから……」
「こいつは傑作さ」

「ほんとはね、こんなことしちゃいけなかったんだよ」
「万死に値するってか?」
「そうだね。でも……」
和音はスクリーンを見つめて言った。
「もしも、これをぼくのかたわれがみたならば、ぼくをさがしにきてくれるかもしれないから……」
「片割れ?」
「ずっとさがしているんだよ。むかしから……」
「じゃあ、約束しよう。俺もおまえと共に在ると……。俺が屍になる日まで……」